「成長投資ガイダンス案」が問う、日本企業の価値創造の本質 | 後編:CFOに問われる「覚悟の設計」
2026年5月下旬、経済産業省の「価値創造経営小委員会」が、「成長投資ガイダンス(案)※」(以下、ガイダンス案)を公表しました。このガイダンス案ではEP(Economic Profit/経済的付加価値)を軸に、日本企業の価値創造のあり方を問い直しています。本シリーズでは、ガイダンス案が示す価値創造の考え方と、それを企業がどう落とし込むかを、前後編で掘り下げます。前編では、なぜこのEPという指標が必要なのか、その理由と重要性を紐解きました。後編となる本稿では、ガイダンス案が示す実践的な行動指針に焦点を当てて、その本質を掘り下げていきます。特に「良い赤字と悪い赤字の峻別」と「株主還元に対する明確なスタンス」は、CFOとして資本配分を考える上で、正面から向き合うべき問いを突きつけているのではないでしょうか。
※記事執筆時点の情報です。2026年7月21日に「成長投資ガイダンス」が公表されました。
■ 前編も併せてお読みください。
「成長投資ガイダンス案」が問う、日本企業の価値創造の本質 | 前編:なぜ今、EPという「共通言語」が必要なのか
「良い赤字」とは何か
ガイダンス案は、「将来の価値創造に向けた成長投資に伴う一時的な赤字(良い赤字)」と、「資本コストを恒常的に下回る事業が生み続ける構造的な赤字(悪い赤字)」を峻別して考える必要性を示しています。
これは一見シンプルな概念に見えますが、実務における難しさは決して小さくありません。新規事業の立ち上げ期、M&A後のPMI、DX投資の先行投資――こうした局面で生じる「良い赤字」は、短期的な財務指標を悪化させてしまいます。一方で、構造的に収益力を持てない事業も、同じように「赤字」として現れます。両者を同じものさしで測れば、投資家は不安を感じ、取締役会は短期的な数字を問い、経営は萎縮してしまいます。
この峻別は、一度の判断で終わるものではありません。重要なのは、継続的なモニタリングを通じて「この赤字は成長投資として機能し続けているか、いつ黒字化するか」を問い続けることです。ガイダンス案も、投資案件や事業の特性に応じた評価・モニタリングの枠組みを整え、仮説と実績の乖離を検証し、必要に応じて軌道修正を促すことの重要性を示しています。
ただし、誤解してはならないのは、赤字はあくまでも解消すべきものだという点です。ガイダンス案が「良い赤字」と表現する成長投資に伴う赤字も、それ自体が肯定されているわけではありません。仮説・時間軸・撤退条件・実行体制を伴い、黒字化への道筋が描かれてはじめて、「管理された赤字」として経営の意思決定の俎上に載せられるのです。
株主還元への明確な問い直し
ガイダンス案の中で私が注目した表現があります。それは、「自社株買いや配当などの株主還元は、キャッシュを株主に還元することにより、短期的な株価の上昇をもたらすことはあっても、企業の中長期的な競争力強化や将来キャッシュフローの拡大に直結するものではない」というものです。
これは、「株主還元か、成長投資か」という二項対立ではなく、「EPの拡大を通じて両者をどう位置づけるか」という観点から、還元偏重に警鐘を鳴らしたものだと言えます。ガイダンス案は、資本コストを上回るリターンが見込まれる投資機会が存在するにもかかわらず、投資を抑制してまで株主還元を優先する場合、将来のEP拡大に資する投下資本の蓄積が進まず、価値創造の機会喪失につながる可能性があると指摘しているのです。
この指摘は、現場のCFOが日々直面する問いと重なります。投資家からの還元圧力を感じながら、一方で中長期の価値創造への投資機会を守ろうとする緊張感です。
ガイダンス案が示したのは、その緊張関係を解くためには、単に「投資したい」と言うのではなく、「どの投資が、どの時間軸で、どのようにEP拡大につながるのか」を説明可能にする必要がある、ということです。また、投資家側に対しても、短期・形式的な議決権行使に偏らず、企業の成長ステージや事業特性、成長投資の時間軸を踏まえた長期・実質的な判断を求めています。これは、企業と投資家の対話構造そのものを変えようとする意志の表れだと受け止めることができます。
ベストオーナー原則と事業ポートフォリオの再設計
ガイダンス案が強調するもう一つの柱が「ベストオーナー原則」です。ベストオーナーとは、当該事業の企業価値を中長期的に最大化することが期待される経営主体を指します。自社がその事業のベストオーナーであるかを問い、そうでない場合には、より価値を生み得る主体への事業移転も選択肢として検討する―― この考え方は、日本企業の価値毀損セグメントへの資本投入が全体の65%に上る現状を踏まえると、極めて切迫した問いになります。
「昔からの大規模事業が低成長・低収益でも手放せない」というのは日本企業の構造的な弱点です。人材の流動性の低さ、組織の慣性、既存事業への思い入れ――これらは数字では測れない経営上のボトルネックとなります。
しかし、ガイダンス案はその先を求めています。収益力のある事業から得たキャッシュを成長領域に再配分し、EPを拡大する。この「成長の道筋」を、社内で実体化し、投資家に語る責務をCFOは担っているのではないでしょうか。
CFOに問われる「覚悟の設計」
ガイダンス案が取締役会に期待する役割の中に、「大胆な成長投資の推進とリスクガバナンス」があります。これは、短期的な業績悪化のみを理由に成長投資を萎縮させるのではなく、成長投資に伴う一時的な赤字と構造的な価値毀損を峻別し、中長期的なEP拡大に資するかという観点から投資を監督することを意味しています。
私は、これを「覚悟の設計」と呼びたいと思います。
成長投資への覚悟は、単なる経営者の意気込みではなく、経営管理の仕組みによって支えられなければなりません。どの指標で、その赤字を成長投資として位置づけるのか。どの時点で仮説と実績の乖離を検証するのか。どのKPIで、投資継続か撤退かを判断するのか。この設計がなければ、赤字の「峻別」という議論は、単なる掛け声に終わってしまいます。
実際、2023年度の対売上高成長投資比率(人件費、R&D、CAPEXの合計)を見ると、米国の29.4%、ユーロ圏の27.2%に対し、日本は17.7%と、日米間には約1.7倍の格差があります。この差を埋めるために必要なのは、投資意欲だけではなく、投資を適切にモニタリングし、軌道修正し、組織として学習し続ける「仕組み」そのものです。
ガイダンス案が問うのは、最終的に「経営として、どこまで本気か」ということです。EPという概念を「知っている」から「使いこなしている」へ。株主還元と成長投資のバランスを「なんとなく」から「論理で語れる」へ。その転換を支える経営管理の仕組みを磨き続けることが、これからのCFOと経営管理部門に求められる最大の課題だと、ガイダンス案を読んで改めて確信しています。ガイダンス案が示したのは万能の設計図ではなく、企業が自社の文脈に合わせて実装すべき考え方です。それをどう自社の言葉に翻訳し、実体化していくか――CFOにはその問いに向き合い続ける責務があります。
【出典】経済産業省 産業構造審議会 経済産業政策新機軸部会 価値創造経営小委員会「成長投資ガイダンス(案)―価値創造の拡大を通じた企業の持続的成長に向けて―」(2026年公表)。本稿における引用・数値はすべて同資料(案)に基づきます。
本稿の執筆者
諸井 伸吾
コンサルティングファーム、ファンド、事業会社での経営企画や事業本部長、COOを経験し、2022年4月より企業経営に役立つ情報システムを探求し続けてきたアバントグループに参画。現在はアバントCOOとして戦略実現に取り組む。
※引用されたデータや状況、人物の所属・役職等は本記事執筆当時のものです。
