「成長投資ガイダンス案」が問う、日本企業の価値創造の本質 ― なぜ今、EPという「共通言語」が必要なのか
2026年5月下旬、経済産業省の「価値創造経営小委員会」が、「成長投資ガイダンス(案)」(以下、ガイダンス案)を公表しました。このガイダンス案ではEP(Economic Profit/経済的付加価値)を軸に、日本企業の価値創造のあり方を問い直しています。本シリーズでは、ガイダンス案が示す価値創造の考え方と、それを企業がどう落とし込むかを、前後編で掘り下げます。前編では、ガイダンス案が「共通言語」として着目するEPとは何かを解説します。
日経平均株価は史上最高値を更新し、TOPIX500のROEも近年ではおおむね9%を超える水準で推移しています。一見、好況に見える中でなぜ今、新たなガイダンスが必要なのでしょうか。その問いへの答えが、ガイダンスの冒頭に示されています。
それは、日本企業を取り巻く「新たなパラドックス」――株価・業績が大きく上昇し、資本効率も一定程度改善する一方で、その成果が賃金上昇や成長投資に必ずしも十分結び付いていないという、逆説です。
「数字をまとめること」ではなく「価値を創ること」へ、CFOの役割は変わらなければなりません。この問題意識は、ガイダンスの問いかけと深く重なります。そしてガイダンスは、その変革を進めるための「共通言語」として、EPに着目しています。
EPとは何か、そして何が変わるのか
EPの定義は明快です。数式で表すと、EP = 投下資本 ×(ROIC − WACC)となります。企業が資本コストを上回るリターンを継続的に生み出している状態を「価値創造」と捉え、その規模を測る指標としてEPを用いているのです。
ここで重要なのは、この指標が、売上や利益が伸びていても資本コストを下回る収益しか生んでいなければ、経済的には価値を毀損している、という事実を可視化する点です。実際、ガイダンス案が引用するデータでは、グローバル企業約2,400社の1社あたり年平均EP(2020〜2024年)が3億6,300万ドルであるのに対し、日本企業(約350社)の1社あたりの年平均はマイナス400万ドルで、改善傾向にあるものの、依然としてマイナスとなっています。米国企業の1社あたりの年平均(2020〜2024年)10億4,200万ドルとの差は、極めて大きいといえます。
このデータが示すのは、ROEが改善しても、EPで見ると、日本企業全体として価値創造の総量が十分に伸びていないという現実です。ガイダンス案は「価値毀損セグメントに投下資本の65%が投下されている」という日本企業の構造を示しています。一方で、米国における同割合は約39%です。
ROEからROICへ、そしてEPへ
ROEは、財務レバレッジや自己株式取得等によっても短期的に改善できるため、事業の本来の収益力を見誤る危険があります。ガイダンス案が、ROEに加えてROICを中核指標の一つとして位置づけるべきだとしているのは、この問題意識の反映です。ROICは「事業活動そのものが生み出す価値創造をより直接的に把握し得る」指標として位置づけられています。
そしてさらにその先に、EPがあります。ROICとWACCのスプレッドに投下資本を掛け合わせることで、「収益の質(スプレッド)」と「規模(投下資本)」を同時に捉えることが可能です。これは単なる指標の追加ではなく、企業価値向上の議論を「何をどれだけ変えれば、EPが拡大するか」という具体的な問いへと変換する力を持っています。
CFOの役割の一つは、自社の戦略や独自のカルチャーに合わせて、管理会計という自前の“ものさし”を創り出すことです。EPという概念は、その“ものさし”の有力な候補になり得ます。ただし、指標として導入することが目的ではありません。EPを通じて「どの事業が価値を創り、どの事業が毀損しているか」を経営の共通認識にし、その認識が資本配分の意思決定に反映されることが、本質的な役割となります。
「共通言語」としてのEPが持つ意味
ガイダンス案が、EPを企業と投資家の共通理解を醸成する軸として位置づけていることは、特筆すべき点です。これまで企業と投資家の間では、対話の土俵が必ずしも一致していませんでした。企業側は成長の取り組みを語り、投資家側の多くは短期的なROEや配当を求める—— その構造的なすれ違いに、EPという「対話の枠組み」を提示したのがガイダンス案の核心だと私は理解しています。
CFOにとって、これは大きな示唆といえます。CFOには「二つの翻訳」が求められます。それは、社内の現場に向けた翻訳と、資本市場に向けた翻訳です。その両方で、EPを共通の軸として活用できる可能性があるのではないでしょうか。現場には「この事業のROIC-WACCスプレッドを改善するために何をするか」という問いを投げかけ、投資家には「EPの拡大を通じて企業価値を高める道筋」を語る。そのための言語こそが、EPなのです。
日経平均株価が最高値を更新し、好況に見えるこの局面で、日本企業の価値創造の実態を直視することが、成長投資ガイダンス案の最初の問いかけとなります。ROEの改善を「成果」と捉えてきた企業も、EPというレンズを通せば見える景色が変わります。その「見え方の転換」こそが、ガイダンス案が企業と投資家の双方に求めている最初の一歩だと私は感じています。次回は、ガイダンス案が示す具体的な行動指針――「良い赤字と悪い赤字の峻別」と「ベストオーナー原則」が、CFOの意思決定にどのような示唆を与えるかを掘り下げていきます。
【出典】経済産業省 産業構造審議会 経済産業政策新機軸部会 価値創造経営小委員会「成長投資ガイダンス(案)―価値創造の拡大を通じた企業の持続的成長に向けて―」(2026年5月公表)。本稿における引用・数値はすべて同資料(案)に基づきます。
本稿の執筆者
諸井 伸吾
コンサルティングファーム、ファンド、事業会社での経営企画や事業本部長、COOを経験し、2022年4月より企業経営に役立つ情報システムを探求し続けてきたアバントグループに参画。現在はアバントCOOとして戦略実現に取り組む。
※引用されたデータや状況、人物の所属・役職等は本記事執筆当時のものです。
