投稿日:2026.04.16
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連載「資本コスト経営と向き合う」

インタビュー

【一橋大学大学院・中野教授に聞く】「資本コスト経営」が目指すものとは何か | 前編:資本コスト経営の本質を問う

東証による資本コスト経営の要請から約3年が経過し、現在では多くの企業で、ROICやWACCといった指標の算出や経営管理への組み込みが進められています。しかし「資本コスト経営と言われても、まだ納得感がない」「現場や事業になかなか浸透しない」という声も少なくありません。
そもそも「資本コスト経営」が目指すものとは何か。類似する概念として語られることの多い「企業価値経営」とは何が異なるのか。そして、この概念は投資家や現場において、どこまで浸透しているのか。

本記事では、コーポレート・ファイナンス研究の第一人者である一橋大学大学院 教授の中野 誠氏に、アバントグループCSO兼アバントCFO 諸井 伸吾が、実務家の視点からお話を伺います。

今、資本コストが経営アジェンダになった背景

アバント・諸井 まずは「資本コスト経営」という言葉がどのように浸透していったのか、その背景についてお聞きしたいと思います。東証の要請もあり、経営アジェンダとして取り上げる企業が増えていますが、中野先生はこの数年の変化をどうご覧になっていますか。

中野氏 実は資本コストという概念自体は、ファイナンス理論では1950年代から存在していました。1958年に提唱されたモジリアーニ=ミラー理論(税金や取引コストがない完全市場において、企業価値は負債と自己資本の比率に関係なく一定であると考える)まで遡れば、学問的にはすでに70年近い歴史があります。日本でも伊藤 邦雄先生が1980年代からROEや資本コストの重要性を説いておられましたが、当時は「それは何ですか、何の意味があるんですか?」といった反応が大半だったそうです。

諸井 長年にわたり周囲の理解が追い付かなかった概念が、今になって注目されるようになったのはなぜだとお考えですか。

中野氏 これは歴史を振り返ってみると興味深いです。バブル経済期、日本企業は過剰な投資を行っていた過去があります。本業ではないゴルフ場やリゾートホテルの買収に積極的な企業も数多く見られました。
その根本原因は、売上や利益の金額にしか注目しなかった点にあります。ROAのような比率指標さえ十分に意識されておらず、そうした状況下で、資本コストを考慮する企業はほとんど存在しなかったのが実態です。

諸井 「投資の効率性という発想自体がなかった」と聞くと隔世の感があります。

中野氏 結果としてバブルは崩壊し、大失敗の事実だけが残りました。当時の中堅から若手の方たちが現在、経営の中枢を担う立場となっています。しかし、彼らの脳裏には過去の投資失敗の苦い記憶があるため、今度は投資しなくなったわけです。過少投資の時代ですね。

諸井 振り子が逆に振れた結果、大企業にはキャッシュが貯まっていたということですね。

中野氏 昔は「ハードルレートを考えずに投資しすぎた」のが問題とされましたが、現代は「貯めたお金にも資本コストがかかる」という新たな課題が生じています。同じ資本コストの議論でも、課題の現れ方が逆になったことが特徴的だと言えます。

中野 誠氏
2000年から一橋大学ビジネススクールで教壇に立つ。主にMBAでコーポレート・ファイナンス講座を担当。ASBJ無形資産委員、日本銀行客員研究員を歴任。企業価値評価、キャピタル・アロケーション、人的資本会計等に詳しい。主著に『戦略的コーポレート・ファイナンス』(日経文庫)がある。

ファイナンシャル・リテラシーの世代間格差と近未来

諸井 伸吾
コンサルティングファーム、ファンド、事業会社での経営企画や事業本部長、COOを経験し、2022年4月より企業経営に役立つ情報システムを探求し続けてきたアバントグループに参画。現在はアバントグループCSO/IR室長、アバントCFO/取締役として戦略実現に取り組む。

諸井 現在の経営層の傾向として「投資に対して慎重」というお話がありましたが、資本コストへの理解は、世代によって差があるのでしょうか。

中野氏 私の実感として、40代半ばより下の世代は、高いファイナンシャル・リテラシーを備えています。主要な大学の経済学部や経営学部においてコーポレート・ファイナンスを標準的に学んできた世代であり、バリュエーションを難なく計算できる程度の基礎力を持っている人材も一定数は存在します。

諸井 それ以上の世代との差は、なぜ生じたのでしょう。

中野氏 MBAの普及が大きいと思います。主要な大学でMBAが始まったのが2000年前後で、MBAでは必ず戦略論、マーケティング、会計、コーポレート・ファイナンスをセットで教えます。こうしたカリキュラムが続いたことで学部教育にも波及してきたのは間違いありません。

諸井 教育のインフラが整備されて以降、より質の高い教育を受けた世代が40代となると、これから数年で経営の中枢に入ってくることが予想されます。

中野氏 まさにおっしゃる通りで、今後5年ほどで経営人材の質は変化すると思います。資本コストの概念を知らないままでは、立ち回りが非常に難しい時代がやってくるでしょう。当初は緩やかに浸透していたものが、ここ数年で一気に普及し始めた実感があります。

「資本コスト経営」と「企業価値経営」の本質とは

諸井 我々アバントグループでは「企業価値経営」という言葉を用いていますが、中野先生は「企業価値経営」と「資本コスト経営」、この二つの概念をどのように捉え、整理されていますか。

中野氏 まず読んで字の通りの解説ですが、「資本コスト経営」というと財務的な印象を受けますよね。一方の「企業価値経営」は、組織や事業全体をより包括的に捉えた上での経営という広義のニュアンスを含んでいるように思います。

諸井 たしかに印象論としてはうなずけます。概念的にはどのように整理できるでしょうか。

中野氏 資本コスト経営は、ROICとWACCの差である「スプレッドを拡大させましょう」という発想です。言い換えれば、質を高める経営です。一方で企業価値経営は、そのスプレッドに投下資本を掛け合わせた「質×量」で価値を捉えるのが特徴です。この定義で言えば、企業価値経営の方がより広義な概念と言えます。

諸井 その考え方に基づけば、いくら高いスプレッド(質)を実現していても、投下資本(量)が伴わなければ、創出される企業価値は限定的になってしまうというわけですね。

中野氏 その通りです。例えば、高いROICと十分なスプレッドを実現しているチェーンストアがあるとします。そのビジネスモデルをそのまま横展開できるのであれば、積極的に出店を増やして「規模」を追うべきです。
しかし、市場規模が小さい、あるいは競合環境などの理由で単純な規模拡大が難しいケースもあります。その場合は、別の成長ドライバーを探さなければなりません。
M&Aによって新しい領域へ資本を投下するという戦略は、まさにそうした「質×量」の最大化を図るための経営判断だと言えます。

諸井 同じくホリゾンタルなSaaSもマーケット予算を拡大すれば横展開が可能ですね。しかし限られた業界を対象にしている場合、そうはいきません。特に国内市場が縮小している業界では困難でしょう。

中野氏 その場合の解決策として、海外企業を買収して規模を確保するパターンも多く見られます。生命保険、損害保険、銀行がその典型例です。スプレッドがわずかでもプラスであれば、規模を拡大することで企業価値を高められるという考え方ですね。この「質と量を掛け合わせる」ことこそが、企業価値経営の深遠さを示していると言えるのではないでしょうか。

資本コスト経営を徹底すると事業が育たなくなる恐れも

諸井 資本コスト経営にこだわり過ぎると、結果的に縮小均衡に陥ってしまうリスクがあるという指摘もあります。

中野氏 その点は極めて本質的な論点です。資本コスト経営を突き詰めると、スプレッドがマイナスの事業に対しては投資しないという判断に至りやすくなります。
短期的には合理的な判断かもしれませんが、将来の成長のための種まきを躊躇するという弊害をもたらす可能性があります。

諸井 事業ポートフォリオを評価する場合も、ROICだけに頼ると見誤りやすくなります。

中野氏 以前、EVA経営が注目を集めた際にも、まさに同じ論点がありました。EVA(経済的付加価値)は、税引後営業利益(NOPAT)から資本コスト(投下資本×WACC)を差し引いて計算します。資本コストを上回る利益が出ているか否かを重視すると、企業は設備投資を抑え、分母である投下資本を小さくする判断を合理化しがちです。
そのような偏りを避けるため、補助指標として売上高成長率やキャッシュフロー成長率を併用する企業が多かったのです。

諸井 ROICを追求しつつ、成長も諦めないバランスが必要だということですね。

中野氏 企業価値経営の視点に立つならば、利益を上げている事業から得たキャッシュで、新しい事業を育成する発想が必要です。とはいえ、全ての新規事業が成功するわけではありません。五つに取り組んだとして、そのうちの一つ、できれば二つが成功すれば及第点でしょう。
しかし、資本コスト経営の視点で見ると、複数の新規事業への育成投資を正当化することが困難であることは否めません。ただ、育成投資に対してネガティブになりすぎると、短期的な合理性は得られても、将来の成長機会を失うことにもなりかねません。今はよくても将来どうなってしまうのかという論点は忘れてはいけないように思います。

諸井 企業価値経営には、財務的に測定しにくい要素も含まれるのでしょうか。

中野氏 それも重要なポイントです。伝統的な製造業や小売業においては、設備投資と売上・利益がある程度連動するため、ROICの評価が機能しやすいのは確かです。
しかし近年は、有形資産への投資と、利益創出が必ずしも連動しない業界が増加していますよね。

諸井 特にソフトウェア企業やサービス業では、設備投資よりも人への投資が価値の源泉となります。

中野氏 アバントもそのうちの一社ですが、価値を生み出すアセットはまさに人材であり、人件費や教育投資といった見えない投資こそが重要になります。これらを分母(投下資本)に含めることができれば本質的な意味でのROICになりますが、会計上は費用として処理されるのが実態です。

諸井 人的資本への投資を資産計上するといった議論もありますが、実務的には課題があるのが現状です。

中野氏 投資家からすると、企業側の恣意的な定義だと捉えられかねません。しかし、企業価値経営という広い視点から見れば、測定できないものも含めて考慮しなければ、その評価は本質的には不十分となります。

まとめ:資本コスト経営を実現するには

諸井 ここまでのお話で、資本コスト経営と企業価値経営の本質が整理できました。資本コスト経営の副次的な効果についても触れていただきました。

中野氏 資本コストを意識することで、企業には投資判断に対する規律が生まれますが、適度なバランスが重要です。過度に縛られると、縮小均衡や事業の育成に対する停滞を招きかねないためです。

後編では、資本コスト経営を実践するうえで直面する具体的な課題を整理するとともに、投資家との対話、経営者に求められる視座や意思決定のあり方について、お聞きします。

※後編も併せてお読みください。
【一橋大学大学院・中野教授に聞く】「資本コスト経営」が目指すものとは何か | 後編:多様化する投資家との対話

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